創価学会の「正月」と規定される5月3日である。戦後の昭和26年を起点にすれば、75周年の日となる。

1951年のこの日、日本でまだ占領統治がつづいていた時代、東京墨田区で、第2代会長の就任式が行われた。

戦後、多くの新興宗教が跋扈した中で、創価学会は完全に出遅れていた。ましてこの教団の宗教は新興宗教ではない。

戸田会長は自分の代で75万世帯の布教ができなければ、自分の葬式は出さなくてよいと宣言した。

ぼんやりした青年は、戸田会長は「長生きするのだな」と悠長に考えた。

その構想が実現するのはわずか6~7年後。教団は戦後の拡大の「基礎」をこの時期に確立する。

第2代会長の死去後、2年間の会長空白の期間をへて、同じ日に第3代会長が就任する。

弱冠32歳。戸田会長のもとで10年間の薫陶を受けた池田青年会長の誕生だった。

しかもこのとき、池田会長は、刑事被告人の立場だった。会長就任を逡巡した最大の問題だったと思える。

信仰の境地でふっきれた部分があったのだろう。そこから怒涛の教団の前進が始まる。

刑事裁判は2年経たずに「無罪」が確定した。日本の刑事司法では、起訴されれば99%が有罪となる中で、異例の出来事といえた。

主導したのは大阪地検。現在、レイプ問題で騒動となっている行政機関である。

当時、池田逮捕に動いた地検関係者のその後の動向を調べたことがあるが、多くが早死にしたり、不遇な後半生を送っていた。この事実は宗祖日蓮を弾圧した鎌倉幕府の権力者たちの後半生とも重なって見られることがある。

ともあれ、この教団の「原点」はあの頃に確立されていると思える。公明党が結成された流れも、この戸田・池田会長の時代に遡る。

「大衆のため」につくられた政党が、真の意味でその目的を達しているといえるのか。またそのような日本社会の道程を描いてきたと言い切れるのか。

会員には複雑な思いを抱いている人もいる。池田門下生の「宿題」は終わっていないのだ。

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