5年前、20世紀の沖縄で生きた空手家の評伝を出版するにあたり、当然、歴史を学ぶことになった。
人間は生まれ合わせた時代状況に大きく左右される生き物だ。そのことが評伝執筆によっていやまして実感された。
よく知られるとおり、沖縄は先の太平洋戦争によって本土決戦を長引かせるための「捨て石」とさせられた。日本軍は現地住民を守らず、住民を避難壕から追い出すケースも後を絶たなかった。
住民は集団自決させられた。
住民の中にはスパイ扱いされ、日本軍の手にかけられた(=殺害された)人たちもいた。
そうした歴史的な「事実」の延長上に、いまの沖縄は存在する。
これまで沖縄で平和運動を行ってきた革新勢力は、こうした沖縄戦の犠牲者の「系譜」に連なる。
先日の京都の私立高校のボート転覆事故および女子高校生の死亡は痛ましいニュースだったが、現代のネトウヨ的世相を反映し、ここぞとばかりに革新勢力を叩こうとする有象無象が跋扈する。ただしこの問題は、基本的には学校の安全配慮義務の問題である。
もちろんボートを出した団体側の責任も当然に存在するが、本質はそこではない。より厳密にいえば、平和運動が叩かれるのは筋違いというべきものだろう。
いま革新叩きをやっている者たちは、住民を守らず、自国民の命よりも自分たちの戦いを優先した者たちの系譜にほかならない。

