アカウンタビリティーという言葉が日本で定着したのはいつ頃だっただろうか。個人的には、1990年代。在日オランダ人ジャーナリストの書籍がきっかけだったように記憶する。
権力者は常に独裁の誘惑にかられる。そして保身と事なかれ主義がワンセットだ。心ある為政者は、構成員に説明し、納得を与える必要がある。
そのため独裁的な気質の指導者、あるいはその誘惑に打ち勝てない指導者、あるいは臆病な指導者は説明を尽くさない。またその責任があることすら自覚していない。
論外は、説明責任を果たす以前の問題として、虚偽を用いて説明しようとする邪まな態度だろう。その筆頭はやはり安倍元首相に尽きる。
テレビカメラや報道陣の取材に虚偽を用いたというよりも、言論の府である「国会」で堂々と虚偽答弁を重ねた記録は容易に破ることはできない。その数、257回。
森友学園問題で2017年から18年にかけて安倍政権が行った虚偽答弁は139回。2019年から20年にかけて「桜を見る会」問題で安倍首相本人が行った虚偽答弁は118回。
いずれもマスコミによるカウントではなく、衆議院事務局が確認した数字だけに、信憑性がある。
“天下の嘘つき宰相”はこうして歴史に刻まれることになった。後世にいたるまでこの「ウソツキ」ぶりは、糾弾されることになるに違いない。
その安倍元総理の後継者を自認する高市首相も、ウソにおいてはそれに劣らない姿勢だ。
説明責任を果たすべき番組でも、自己都合でキャンセルすることは平気だし、統一教会問題においても、そもそもきちんと説明しようとする意思を見せてこなかった。
国民有権者に対する誠実度を数値化すれば、相当に低くなることは明らかだ。だが国民はそうした姿勢にはあまり頓着しない。むしろ見かけの姿に騙されやすいからだ。
どこまでも説明責任に誠実な姿勢。それは為政者にとっては「不可欠」の条件であらねばならない。逆に国民有権者側が、厳しくあらねばならない。
そうでないと民主主義は機能しない。

