本日付の東京新聞コラムで、昭和天皇が早めに終戦の「聖断」を下していたら、その後の「東京大空襲も沖縄戦も広島・長崎への原爆投下もなく、何十万もの命が救われた」との記述を目にした。

確かにそうだろう。

だが本当に昭和天皇が早めに終戦を決断していたら、現在の歴史においては「東京大空襲」「沖縄戦」「2度の被爆経験」とも、いずれも存在していない。

注意が必要なことは、なかったことを認識することは人間にはできないということだ。

つまり、一定の結果が出たあと、もしあの時点でこうしていればこうはならなかったという類いの空想はいくらでもできるが、逆は難しいということだ。

もちろん政治家などの立場からすると、早めに終戦し、多くの悲惨を事前に食い止めていれば、それは政治家の正しい役割を果たしたことにはなるだろう。

ただし世間的には、未然に防止したという形は目に見えないので、評価されることはまったくないはずだ(一部の歴史家がその後に主張するレベルにとどまる)。

何を言いたいかといえば、歴史は常にこのような側面があり、一つの判断が、真の意味で民衆全体の利益という観点で行われているかどうかを識別する作業は、同時代の一般大衆には難しいという事実だ。

それができるのは事情に精通した関係者、あるいは報道関係者である場合もあるかもしれない。

さらにその後の歴史家がそれらを正しく検証できるとも限らない。

つきつめれば、ある人物への歴史的評価は、常に自分自身が問われる行為ともいえる。

民主主義はあくまで大衆が賢いことを前提として成り立つ政治システムである。

その意味では大衆をダマし、うまく立ち回ろうとする一方の担い手と、真実を暴き大衆を賢くしていこうと試みるベクトルとの、果てしなき闘争の過程ともいえる。

現在の日本社会は、前者が席巻している状況に見える。

\ 最新情報をチェック /