不破哲三こと上田建二郎氏の訃報が届いた。この10月には村山富市元首相も亡くなったので、社共時代の終焉を象徴する。

「共産党のプリンス」(朝日)として40歳の若さで初代書記局長として颯爽デビューした華やかな経歴ながら、「半世紀にわたって党中枢を担い続けた」(東京)ことは揺るぎない事実だ。

不破氏の世代で長年のライバル政党であった公明党の対抗馬を挙げるとすれば、やはり矢野絢也に尽きる。

不破氏は1930年生まれ、矢野は1932年生まれ。不破氏は1月生まれなので学年は3つ異なる。

矢野が公明党の書記長に抜擢されるのは1967年。抜擢したのは党創設者の池田会長(当時)だった。一方不破氏は3年遅れて70年に書記局長に就任する。抜擢したのは同時に初代委員長となった宮本顕治氏である。

不破氏が書記局長に就任した1970年といえば、日本共産党が言論出版妨害事件で創価学会公明党を先鋭的に攻め込んだ年と重なる。

一方、党委員長に就任するのは不破氏のほうが早かった、1982年に就任し、一方で矢野は86年だった。だが、その後の政治家人生は大きく異なることになった。

矢野は立党の原点として「政治とカネ」の浄化を掲げた政党の代表でありながら、自ら汚職事件を引き起こし、89年5月、党委員長を辞任に追い込まれる。

他方で不破氏の2度目の委員長就任は、矢野が辞任した日から2週間後のことで、ここで運命の分岐点が生まれた。その後、不破氏は2000年まで委員長を務める。

私個人は不破氏の北朝鮮政策を批判する書籍を発刊したことで訴えられることとなった経緯があるものの、今となっては特に感慨はない。

現在も同党について取材している立場であり、同党の現実を見知っているだけに、不破氏の功績を評価する気持ちにはなれない。

要するに、同党の中心的存在として位置してきた人物であることは間違いないが、同党の将来の継続性に道筋をつけたとは到底いえないという認識でいるからだ。

逆にいえば、矢野絢也はそれ以下の評価ということになる。

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